教務から

「仕えられる者から仕える者へ」2024年度第2回入学式のご報告

皆さまには日頃よりお祈りを賜り、ありがとうございます。

去る4月6日にクリスチャンライフ学院第2回入学式が行われました。2024年度は本科生12名と共にスタートすることができましたことを心より感謝します。

以下は入学式に寄せた重田稔仁学院長からのメッセージです。

仕えられる者から仕える者へ
重田 稔仁 学院長

そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来てひれ伏し、何かを願おうとした。イエスが彼女に「何を願うのですか」と言われると、彼女は言った。「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人は左に座れるように、おことばを下さい。」イエスは答えられた。「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが許すことではありません。わたしの父によって備えられた人たちに与えられるのです。」ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまい、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」(マタイの福音書 20章20~28節)

今日の聖書箇所を読んで、ゼベダイの息子たちの母と私の母は同じだったしみじみと感じました。学校の先生をしていた母は、2人の兄と私の3人の息子のために、学校で少しでも良い待遇を得るために画策する人でした。ゼベダイの息子たちも内心、かの日にイエス様の右と左に座る、そのような立場に立ちたいという願いがあったのでしょう。

私はクリスチャンになってから2年半、教会に住み込んで教会献身をしていました。毎朝5時に起床、5時30分から早天祈祷、7時半から掃除、朝食をとってからその日一日にすることについて告げられて、仕事をしました。徹底的に仕えることを訓練されました。しかし、皮肉なことに、神学校を卒業すると、仕えられることを学ぶという言葉を耳にしました。仕えることを学ぶ神学校での生活が終わり、牧師になると仕えられる者に変わるということの意味は分かりませんでした。しかし牧師になってよく分かりました。教会とは牧師と牧師に仕える信徒がいる、そのような文化になっているのです。ではどのようにしたら私たちは仕えられる者ではなく、仕える者になるのでしょうか。

まず、「仕える」とは文化として捉えていかなければなりません。この世の文化は人が人の上に立つ、つまり神になることが人生の究極の目的です。ですから、ゼベダイの息子たちの母も人の上に立つというこの世の文化の価値観を持っていました。しかしイエス様がはっきりおっしゃっているのは、神の国の文化は、神が人になられた、つまり人の下に立つ、仕えるという文化です。これが、神の国の文化に生きる私たちの人生観です。では、私たちの労働観はどうなるでしょうか。この世は私と私の延長線上の人々のために生きます。会社は社会貢献をし、働く人は自分の生活、自分の人生、自分の家族のために働き、その延長線上に社会があります。神の国はまず神と他者のためにあります。「私」は最後なのです。それは絵に描いた餅だと思うかもしれません。私もそのように思っていました。しかし、神の国に生かされているのだということを自覚して生きるとき、自分を中心とするのではなく、神様を中心として、自分が生きて働くという思考がかたち造られます。

ではその神の国の思考はどのようにかたち造られるのでしょうか。神の国の原理原則とは、神様がまず私たちのために、私たちが計画する前からまず働いておられるということです。安息日にイエス様が癒やしを行い、非難されたとき、イエス様はこうおっしゃっています。

「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」(ヨハネの福音書5章17節)

私が働くのは、父なる神が働くからであり、その延長線上に私がいるということが分かると、自己中心的に、自分のために、あるいは自分の家族のために、自分に連なる人のためにではなく、他者のために働くことができるマインドセットになります。これが神の国の行動原理ではないかと思います。

CLIでは、神の国に生かされている者として、互いに助け合い、励まし合い、メンターとしての訓練を受けます。その中で対話を大切にしています。講師と学生、あるいは学生同士での対話を通して、いろいろなことに気づかされながら神に仕える者と造り変えられます。そのプロセスは楽しく、人生の喜びとなると信じています。

以上

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