「ただ神と共にあることを喜ぶ~ヨハネ17章における主の祈りに生きる」
重田 稔仁学長(JTJニュースレター2025年9月号より)
信仰の歩みの中で、私たちは多くの願いをもって神に祈ります。癒し、奇跡、導き、祝福……。それらが必要なときもありますが、信仰が深まるにつれ、私たちは気づき始めます。すなわち本当に心が求めていたのは、神ご自身、つまり主の臨在であったのだと。
詩篇73:25にはこうあります。「天ではあなたのほかに、だれを持つことができましょう。地上では、あなたのほかに望むものはありません。」
主が共におられること、それだけで満たされる。何も得られなくても、主がそこにいてくださる。それこそが、神の子に与えられた最高の祝福であり、栄光なのです。
出エジプト記33章で、モーセは神にこう願いました。「もしあなたご自身が私たちとともに行かれないのなら、私たちをここから上らせないでください」と。約束の地に入るよりも、主の臨在と共にあることを、彼は選びました。つまり、道が平坦だから平安なのではなく、主が共におられるからこそ平安なのです。そしてこの「臨在の栄光」は、主イエスが十字架に向かう前夜、弟子たちのために祈ったヨハネ17章にも現れます。
「あなたがわたしにくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。」(ヨハネ17:22)
御子イエスの栄光とは、父と御子が愛と一致のうちに生きる、臨在の交わりそのものです。御子はその交わりに私たちを招き、神の子として「 父と共にある」生き方へと導かれました。
この臨在は、功績への報酬ではなく、神ご自身が与えてくださる賜物(ギフト)です。エレミヤ29:13で神はこう語られました。「あなたがたが心を尽くしてわたしを尋ね求めるなら、わたしに出会う」。静かに、しかし確かに、神はご自身を現してくださるのです。
特別な奇跡がなくとも、静かな日常の中に主の息遣いを感じるとき、そこには神の国の現れがあります。それは劇的な体験ではなくても、「 主が共におられる」その実感こそ、最も深い栄光の体験です。
主よ、
私たちはあなたの臨在を慕い求めます。
あなたが共にいてくださるなら、私たちは何も恐れません。
奇跡ではなく、成功でもなく、 ただあなたと共にあること、それを私たちは心から喜びます。 アーメン。